H21年度 文化ボランティア・コーディネーター養成講座 第11回
日 時:平成21年11月7日 (土)15:00~17:00

講座名:文化ボランティア・コーディネーション概論
講師:国立教育政策研究所 教育課程センター
教育課程調査官 奥村 高明氏
講座概要
1. はじめに
ソニー・ロリンズのコンサートを宮崎で作り上げる話。8人のネットワークで1500人の会場を満杯にする。固定的なジャズファンを対象にしない。持てない大きさのチケットやアートポスターを作り、ジャズを聴く人のネットワークやコミュニティを作っていく。「このくらい費用がかかるだろうから、このくらいの値段を取って、、、」というような「引き算・割り算」の考え方ではなく、「足し算・かけ算」の考え方で行く。実は「ジャズファン」というものはいないという発想。何か、イベントを作り上げるとき、この「ジャズファン」というところを、その何かに置き換えればいい。
街こそがミュージアムやシアターである。商売をやっている人は街の清掃からやっている。物を売っているということは街をデザインしているということ。
「ピカソ」という字をスクリーンいっぱいに写して受講生に読んでもらう。次に「学力」という字を読んでもらう。大人は「わかっている」という場所から物事を見る。わかってしまうと、実はわからなくなる事がある。子どもたちの気持ちがわからなくなる。
2. 子どもと学習
子どもが作家の道具になるとか、数に貶められるとかがあってはならない。教育の主体はそこで学習する当事者、その子が伸びる事が真っ先に考えられるべきである。子どもとは始めから「子ども」ではない。文化的関係的に作り出された「子ども」である。アフリカの狩猟民族の子どもは11ヶ月で鉈で木の実を割る事ができる。同様におままごととはそれをする事を許される社会でのみ成立する。アメリカの1800年代の中学生くらいの写真。この子らにはおそらく反抗期がない。反抗期とは体力も知力も十分あるのにそれを社会に貢献できない社会、つまり学校制度が確立した国にのみ発生する。日本の戦前にも反抗期はなかったであろう。子どもは社会的文化的な実践の中で「子ども」になる。これを「市民」と読みかえてみればいい。今の世の中の今の時代の今の場所の中での「市民」である。
学習とは子どもという入れ物の中に水を流し込むようにすればいいというものではない。子どもが美術館で学習する時、一人で学習してはいない。友達の意見、先生の進行、美術館の環境、作品・教材などに囲まれて、自分らしさ-アイデンティティを成立させていく。自分というものはたくさんいる。その場その場で自分が生まれる。「自分探し」とよく言うが探しに行っても見つからない。あなたのいる場所が「自分」。
学習とは学習をめぐる・人・モノ・コトで成立している関係的な実践である。子どもはその中で、自分らしさを感じ、アイデンティティを成立させている。
3. 学習のデザイン
デザインとは、単に色や形をきれいにする事ではない。例としてアフリカの子どもが20kmの距離を多量の水を運ぶためのきれいなデザインの円形の道具の写真。デザインは行為・社会・人を作り出す事ができる。イベントのデザイナーであれば、そこで、行為・社会・人を作り出す事ができる。
100年前にコダックが「6歳から96歳までのアマチュア写真家」というものを作り出した。コダックがカメラと現像所とフィルムとサービス網というものを作りだすまで、そういう人はいなかった。どれか一つ欠けても成立しない。ひとつの実践は人、もの、ことなど様々な関係で成立している。その一つ一つが不可分な関係にあり、どれか一つ欠けても有り方が変化する。つまり、文化的社会的な「生態系」ということもできる。この中ではじめて人は人になれる。
先ほどの美術館で学習する子どもはいろんなものに囲まれて学習していると言ったが、それだけではない。その囲んでいるものは面々と続いている。つまりそのすべてに囲まれて、その子はその子になる。学習の生態系である。
4.学校や美術館の現在
埼玉県加須小学校の事例~「加須小まちかど美術館」。町の商店街の店に年に2回子どもたちの絵を張り出す。子どもを中心とした街の活性化が起きる。子供がただ絵を飾ってくださいと持っていっただけで、学校機能の見直し、商店街機能の見直しが起きる。行政の支援も引き出す。子供はまちづくりの道具にはなっていない。かかわる人々の意識に子どもの育ちが位置付いている。商店街の人々はそれに貢献していることを喜んでいる。それが結果的に中央商店街の活性化につながっている。
長野県戸倉上山田中学校の事例~とがびアートプロジェクト・・(略)・・
沖縄県立博物館と美術館の事例~この二つは同じ施設の中、右と左にある。博物館と美術館を一度に見ることができる。そこで博物館と美術館でまなざしが変わることが体験できる。博物館では、誰かが分類・整理したものを見せて見方を与える、定義づける。美術館では誰かが創造したものを見せて見方をゆさぶる、みなおすという働きがある。
旭山動物園の事例~・・(略)・・ここでは動物園や職員の考え方を可視化しているから、動物を見る私たちの日常や見方そのものがゆさぶられ問い直される、だから、本当に面白い、楽しい。動物を作品、動物園を美術館と見ると置き換えたとき美術館の在り方が見えてくる。
5.おわりに
美術館に入るから作品は名作になる。作品の保存方法、修理方法、作家とのネットワークそういうものも全部美術館に入る。美術館は美術を美術として価値付け収蔵する以外に、さまざまな美術に関するネットワークを全部美術館に収蔵する。そっくりなのが学校。単に子どもたちを入れているのではない。教育のノウハウを全部入れている。近代というシステムの中ではお互いに孤立している。だから、文化ボランティアやNPOなど、つなぐ役割が必要になる。学校だけでは、美術館だけではできないことを、お互いの専門用語を翻訳してつなぐ。文化ボランティアやNPOというのはまさにこの意味において自然にかつ必要必然として発生してきた。知恵や関係性のつなぎ直し、コミュニティの形成し直しなどという志によって成り立つのが文化ボランティア、文化NPOなのである。
滋賀の文化ボランティアフォーラムの事例~子どもの育ちを事業の中心にそえ、そこから展開や広がりを考える。結果として人が育つ。志の高さが際だっている。
子どもは一人で大人になるのではない。先生とか親とかいろんな人のかかわりの中で大人になっていく。子どもが「できた!」と言う時は、「私はここにいるよ」ということ。かけがえのない子どもはかけがえのない先生などに囲まれてはじめて、かけがえのない子どもになる。

文化ボランティアの話にすれば、子どもを市民に先生を文化ボランティアに置き換えてみればいい。かけがえのない市民がいる。それはかけがえのない文化ボランティアなどに囲まれて初めてかけがえのない市民になる。どこからかえらそうな先生が来て何か講釈をするより答えは現場の中にある。自分たちの気づかないようなものの中にある。答えは自分たちの実に身近な、私たちの身の回りに、イベントのその中に転がっているような気がする。
(要約~ネイチャリング・プロジェクト事務局)